一遍上人と熊野
藤沢市・清浄光寺の一遍像Utudanuki - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
熊野信仰を、南北朝から室町時代にかけて盛り上げていったのは、時衆(じしゅう)という仏教の一派でした。
時衆とは、一遍上人(いっぺんしょうにん。1239~1289)を開祖とし、鎌倉末期から室町時代にかけて日本全土に熱狂の渦を巻き起こした浄土教系の新仏教です。
時衆の開祖とされる一遍上人は、阿弥陀の浄土と見なされていた熊野の本宮に参籠し、そこである種の宗教的な覚醒に到りました。一遍上人自身が「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」と述べ、時衆ではその一遍上人の覚醒の体験を「熊野成道(くまのじょうどう)」と呼び、その年を時衆開宗の年としています。
時衆の念仏聖たちは熊野を特別な聖なる場所とし、熊野の勧進権を独占し、説経『小栗判官』などを通して熊野の聖性を広く庶民に伝えました。
それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を時衆の念仏聖たちは庶民にまで広めていきました。
熊野信仰が全国的なものとなったのは、一遍上人と時衆のおかげなのです。
一遍上人について
一遍上人は、四国は伊予(愛媛県)松山の豪族で河野水軍の将・河野家の出身。10歳のとき、母の死に無常を感じて出家。13歳で浄土宗に入門。25歳のとき、父が亡くなり、家督を継ぐために生国に帰り、還俗。豪族武士として生活しますが、33歳で再び出家。3人の尼僧(2人の成人女性と少女1人。妻と娘と下女と思われます)を連れて伊予を出ます。
一遍上人ら一行は、融通念仏(ゆうずうねんぶつ)の聖(ひじり)として「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏札を配って人々に念仏を勧める遊行(ゆぎょう)の旅を始めました。
融通念仏とは、1人の念仏で1人が救われるのではなく、何人もの人が互いに念仏を唱えることで、念仏の力が融通しあって、より強い力となって、人々が救われるというものです。
浄土の東門とされ念仏聖の拠点であった四天王寺を経て、やはり念仏聖の拠点であった高野山を詣でた後、文永11年(1274年)の夏、一遍上人一行は、阿弥陀の浄土と見なされていた熊野本宮へ向かいました。熊野本宮に向かう道中、一遍上人にとってショックな出来事がありました。
その出来事がきっかけとなって、熊野本宮での「熊野成道」があり、時衆という新仏教が生まれることとなりました。「熊野成道」について詳しくはこちら。
一遍上人は「熊野成道」の後、生き仏として崇められるカリスマ宗教家となり、上は大名から下は乞食まで貴賤男女を問わず日本中を熱狂の渦に巻き込みました。
一遍上人の布教の2本柱
一遍上人の布教の2本柱は、 賦算(ふさん)と踊り念仏(おどりねんぶつ)。この2つで人々を極楽往生に導きました。
賦算
賦算とは、念仏札を配ること。
一遍上人は熊野成道の後、「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」会う人ごとに念仏札を配って、念仏を勧めて諸国を巡りました。
信不信を選ばず。
信心をもっていようがいまいがかまわないというのは、天台本覚思想の「人は生まれながらにしてすでに悟っている」という考えに基づくものです。
あらゆる人が阿弥陀仏の力によって往生するであろうことはすでに決定されているのだから、あとはその人が素直な心で阿弥陀仏を求めて念仏を唱えればそれだけでよいのだ、という考え方に基づき、一遍上人は念仏札を会う人ごとに配りました。
踊り念仏
一遍上人は東北地方から九州まで全国を遊行しましたが、その途中、弘安2年(1279年)、信州佐久で集まった人々と念仏を唱えていたところ、人々が念仏の喜びのあまり念仏を唱えながら踊りだしてしまったということがありました。これが時衆の「踊り念仏」を始まりです。
他の浄土教では、念仏を唱える者と阿弥陀仏との間に無限の距離が横たわっていますが、一遍上人の踊り念仏は、リズミカルで激しい踊りに身をゆだねることで、その忘我のエクスタシーのうちに人間と阿弥陀仏の距離を一気に無化するというじつに密教的な念仏でした。
一遍上人の踊り念仏は盆踊りの原型だといわれています。
一遍上人の最期
生き仏として崇められるほどになった一遍上人ですが、自身はなお自分の寺を持たず、諸国を遊行し続けました。最低限必要な物だけを持ち、歩き、念仏を唱え、踊り、念仏札を配る、遊行の日々。「遊行上人」ともいわれ、「捨聖(すてひじり)」ともいわれた一遍上人は生涯、歩き続けました。
そして、16年の過酷な遊行ののち、一遍上人は正応2年8月23日(1289年9月9日)、兵庫和田崎の観音堂で51歳の生涯を閉じました。その直前、死に臨んで、一遍上人は「一代聖教みな尽きて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」と言い、一遍上人は手元にある経典の一部を書写山の僧に託して奉納し、残りのすべての書籍を焼き捨ててしまいます。亡骸は「野に捨てて獣に施すべし」と言い残し、すべてを捨て切って、一遍上人は静かにこの世を去りました。
生涯、自分の寺を持たなかった一遍上人ですが、一遍上人の死後、一遍上人の教えを受けた人たちが各地で寺を建て、教団を組織化していきました。この時衆教団は、開祖が成道した熊野本宮を神聖視し、熊野信仰を庶民の間に広めていきました。