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念仏札

一遍上人語録

消息法語

山門横川の真縁上人へつかはさるゝ御返事

この世の対面は多生の芳契、相互いに一仏に帰する事、これよろこびなり。生死は我執の迷情、菩提は離念の一心なり。生死もと無なれば、学すともかなふべからず。菩提もと無なれば、行ずとも得べからず。

しかりといへども、まなびざる者はいよいよまよひ、行ぜざる者はいよいよめぐる。この故に身をすてて行じ、心をつくして修すべし。このことはりは、聖道浄土ことば異なりといへども、詮ずるところこれ一なり。故に法華経には、「我不愛身命、但惜無上道」とすすめ、観経には、「捨身他世、必生彼国」ととけり。

しかれば聖道は自力の行、自己の身命を捨てて道をあきらむる事自然なり。浄土は他力の行なれば、身命を仏に帰して命つきてのち仏性を証す。然れば吾等ごときの凡夫は、一向称名のほかに、出離の道をもとむべからず。

阿弥陀経の中には、「念仏申すものは、六方恒沙の諸仏の護念に預りて、順次に決定往生する事疑いなし」ととかれたり。ただ南無阿弥陀仏の六字の外に、わが身心なく、一切衆生にあまねくして、名号これ一遍なり。

兼ねて又、紫雲天華の事、称名不思議の瑞相なれば、凡夫の測量(はかりはかる)におよばざる者か。凡情を尽くして、この華もよくわくべく候。阿弥陀経百巻、仰せのごとく結縁仕り畢(おわん)ぬ。あなかしこ。南無阿弥陀仏。

   四月二十二日              一遍

 真縁上人

 

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